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タイ王国ランプーン

タイ北部、物静かな街、という印象のランプーンのフォトギャラリーです。かつては「ハリプンチャイ」と呼ばれたモン族の王国の首都だったんですね。

ランプーンの風景色々

ランプーンはピン川の支流のクワン川沿いに位置し、タイ北部の主要都市チェンマイからはおよそ30km、車では30分ぐらいの所にあります。(車で行くと、チェンマイからの道路沿いに、1899年にチェンマイのプリンスが植えたとされる黄色の帯を巻いた並木が見られます)

ランプーンはどんなところでしょう?歴史などをちょっと見てみましょう。

  • 歴史を振り返ってみると...

    かつては「ハリプンチャイ」と呼ばれた北タイ最初の王室都市で、タイ北部では最も古く繁栄した場所。それ以前の「サマントラ国」(Samantraprathet)衰退後、661年(現在では750年頃と考えられている)に「ハリプンチャイ・ナコーン」として復活し、663年には女王「チャーマ・ティーウィー」に始まる「チャーマ・ティーウィー王朝」はおよそ620年の間ハリプンチャイを統治しました。

    仏教、政治、経済、芸術などランナーの全ての文化の起源であったハリプンチャイ、ハリプンチャイの文字も、古代モン族や400年後のスコータイ時代に発明されたタイ文字のアルファベットの起源でもあり、ビルマ語にも影響を及ぼし、更に北タイのランナーの文字の起源でもあるようですね。

    1281年にはランナータイ王国に吸収され、16世紀にはランナータイ王国とともにその後200年以上にも及ぶビルマの支配下に入ります。1795年にジャ・バーン王(King Ja Baan)とカウィラ王(King Kawila)がチェンマイをビルマから奪還し、荒廃したハリプンチャイを「ランプンチャイ」と改名して再興しようとします。カウィラ王はチェンマイランパーンの人々に加え、北のシブソン・パンナ(SibsongPanna)から10,000人のタイ・ルー族の人々を迎えて町が復興されます。(タイ・ルーの人々がランプンチャイに到着したのは1806年4月の事。2006年にはランプーンで200周年記念祭が行われています)


    (旧道:チェンマイ・ランプーン街道の並木道)

    ラーマ5世の統治下の1894年には行政改革が行われ、チェンマイランパーンナーン、プレー等と共に北の都市は1つの地区(パヤップ Payap)にまとめられ、1929年の改定により県となって現在のランプーンとなります

    ハリプンチャイでは、インド、ローマ、モン、クメール、ラヴォ、タイ・ルー、ヨン、シャン、中国等々、様々な人種が住み、同時期の他の王国と比べると、ハリプンチャイ・ナコーンがどれほど人種が混在していたかがわかります。現在のランプーンにおいても、タイ・ルー、モン、ヨノック、カレン、ラワ、ヨン、シャン等の民族が伝統的な生活を送っています。

  • 伝説と名前の由来

    伝説によれば、仏陀がこの地を訪れた際にターミナリア科の植物のサモール(Samor)と呼ばれる果物を僧からもらい、その時、やがてここで「ハリプンチャイ・ナコーン」という名の町を興す人が現れるでしょう、といった予言をしたとか。

    後にワステープ(Wasuthep)とスッカタンタ(Sukkatanta)という名の二人の僧がこの地に「ハリプンチャイ・ナコーン」という名の町を作った。時は661年(仏歴1204年)、「ハリ」は”サモールの果実”、「プンチャイ」は”消費する”、「ナコーン」は”市”

  • 仏教について

    (寺院ワット・プラタート・ハリプンチャイの大きな仏塔)

    ハリプンチャイ時代以前、人々は「ピー・プ・セ・ヤ・セ」Phii Pu Se Ya Se と呼ばれる先祖の霊を崇拝していましたが、後にヒンズー教がもたらされ、マハヤナ仏教(大乗仏教)が北タイに初めて成立し、テラワーダ仏教(上座部仏教 or 小乗仏教)、ランカ・ウォン、ラマン・ウォン、シホル等に変化していったようです。(タイはテラワーダ仏教、日本はマハヤナ仏教ですね)

    仏教の最初の盛隆はワット・プラタート・ハリプンチャイで仏陀の髪が見つかった時に起こり、アティッタヤラート王(957年ぐらいの時)の時代に、北タイで最初に仏陀の髪を収めた仏塔を建設。伝統的にすべてのハリプンチャイ王朝の王は戴冠式の前にはその仏塔を参拝しなければならなかったと言われ、またヒマラヤのチベットの僧でさえ、この仏塔を毎年参拝に訪れなければならなかったほどであったということから、ランプーンは周辺一帯の仏教の中心であったようです。

    ワット・プラタート・ハリプンチャイの仏塔は最も古い仏塔として認識されており、ラーマ4世はタイの最も有名な8つの仏塔の1つとして言われました。

  • 世界へ向けた遺産

    (寺院:ワット・チャーム・ティーウィー)

    ランプーンの重要性は様々なレベルにあり、ユネスコの世界遺産レベルと言われ、ランプーンの人々は文化遺産の保存に非常に気を配っています。ハリプンチャイの職人は世界の芸術家や芸術の歴史家に古代の芸術品の最も優れた芸術家と賞賛されているとか。

    ランプーンの歴史的町の特徴は建築にあると言われ、建設は、ランナー、スコータイアユタヤなどの上部や下部の地域の原型となっており、独自の仏塔はとしては以下が挙げられています。

こじんまりとした静かな街でいいなー、というのが最初の印象でしたが、歴史はとても長く、非常に影響力を持った都市だったんですね。いやビックリ。
チェンマイから近いし、またタイ北部へ来たときは訪れてみたいです。^-^)

ランプーンの町をぶらぶらと
城門や城壁、街の様子
このランプーン、ハリプンチャイ王国の都だったことから、町には今でも城門や城壁を見ることができます。(チェンマイ みたいですね。というかランプーンの方が歴史が古いのでチェンマイ がランプーンみたい、という感じでしょうか)

全ての城門は分かりませんが、ランプーンの町をお堀に沿って...
ランプーンの王室寺院
ワット・プラタート・ハリプンチャイ
寺院内にはとても大きく高い北タイで最初に仏陀の髪を収めた仏塔があり、伝統的にすべてのハリプンチャイ王朝の王は戴冠式の前にはその仏塔を参拝しなければならなかったほど。ヒマラヤのチベットの僧でさえ、この仏塔を毎年参拝に訪れなければならなかったといいますから大きな影響力をもっていたんですね。...
女王の眠る仏塔
ワット・チャーム・ティーウィー
ワット・チャーム・ティーウィー」、または寺院にある有名な仏塔の名前にちなみに「ワット・ククット」と呼ばれるこの寺院。
ハリプンチャイ王国時代の13世紀に建立されたようですが、寺院には有名な仏塔が2つあり、1. 仏塔ククット(Chedi Kukut)、2. 仏塔ラタナ(Ratana Chedi)、ランプーンの文化遺産はユネスコ...
最愛の女王
女王チャーマ・ティーウィーの像
この地は「ランプーン」と呼ばれる遥か以前は「サマントララプラテート」と呼ばれ、その衰退後、661年に「ハリプンチャイ・ナコーン」として町は復活します。663年にはタイ中央のロッブリーより王女「チャーム・ティーウィー」が女王として迎えられ「ハリプンチャイ王国」が始まり、女王はタイ中部の王国「ドゥヴァラヴァティ」の ...
ランプーンの歴史を語る
ハリプンチャイ国立博物館
本館と別館があり、本館には、ハリプンチャイ様式やランナー様式、ロッブリー様式の仏像や粘土焼き(テレコッタ)の仏像、ドヴァラヴァティ様式のスタッコ(Stucco)、その他砂岩の造形物や陶磁器、先史時代の発掘物等々、色々と展示されています。
別館には、ランプーンの歴史や文化の詳細な説明、変わったところ...
山の上の仏塔
ワット・プラ・プッタ・バート・ターク・パー
この「ワット・プラプッタ・バート・タークパー」、ランプーンの町から南西へ約14キロのところのパーサーンという町にある寺院。広大な敷地と目まいがするような遠く離れた小高い丘の上に仏塔「プラタート・チェディ・スィー・クルーバー」がたつ独特の寺院で仏塔のたつ丘の上からはランプーンが広々と見渡せます。寺院の名前から...
ナーガに囲まれて鎮座する仏像
ワット・マハワン
ワット・マハワン」は街中に近く位置し、女王チャームティーウィーにより657年(仏歴1200年)に建立されたと説明されています。
ナーガ(蛇神)に囲まれて鎮座する仏像が有名で、これはハリプンチャイ(ランプーン)の初代女王チャーム・ティーウィーにより、ラウォ(タイ中央のロッブリー)よりもたらされた「プラ・プッタ・ ...
峠の軍人、クンターン王
クンターンのお堂
ここにはとても勇敢な軍人であったクンターン王(Paya Berg)が祀られていて、お祈りが叶う場所としても信じられてます。
この「クンターンのお堂」、地元の人しか知らないローカルな場所かも知れませんが、自動車を運転するドライバー達はこの前を通る時、クラクションを鳴らしてこのお堂に挨拶したりします。...

チェンマイには行ったことあるけどランプーンはまだ、というあなた。それはちょっと勿体ない。
チェンマイからはすぐ近くなので、ちょっと足を延ばしてこの歴史ある場所を訪ねてみましょう。^◇^)ゞ

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